判断の合理性、決断の不合理性

判断(Judgement)は合理的に行われるものだ。それに対して、決断(decision)とは本質的に不合理である。

私は今まで決断というものは「△△だから○○に決める。」ものだと思っていた。でも違った。なぜなら「△△だから」という理由付けには必ず何らかの文脈を持っており、それは規範的判定そのものだからだ。

私は判断と決断の違いを分かっていなかったのだ。つまり、決断とは「△△だから○○に決める。」のではなく、「△△だけど○○に決める。」ことなのだ。

 世の中はいろいろな価値判断があって、その選び方によって真逆の結果になることがある。数々の価値判断から何を選び取るか。まさにここに恣意性があり、合理性を超越する。つまり、決定基準に不合理性を伴うからこそ決断なのだ。

 逆に言えば、合理的な決断は決断ではなくむしろ判断に近いということだ。だけどがなければ、そこにあるのは合理性だけだ。合理性というのはみんなを魅了するので結局みんなやることになる。そこにあるのは、競争、市場主義、最適化が待ち受ける世界だ。

 ほかの選択肢はいくらでもある。だけど○○をやる。○○をやる。まるで定言名法のようだ。

 だからではなくだけどにすることで気が楽になる気がする。だからにするとその△△が消え去れば○○をする動機そのものが失せてしまう。しかも、不確実な世界では△△が簡単に消失しかねない。しかし、だけどにすると言い訳ができるのだ。理由がなくなっても、だけど(あえて)そうしてきたのだから別にいい、という気分になれるような気がする。

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